映画「聲の形」 写し鏡のような二人の、苦しみと再生の物語

映画「聲の形」を観に行きました。

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原作未読、かつ何の前情報もなしに観に行きました。

言葉にならない衝撃を受けました。あまりに素晴らしくて、3回観に行きました。おそらくあと何度か観に行きます。ここ数年の洋画や邦画を全部含めても、ベストワンの映画です。

せっかくなので、映画の感想記録を残しておきます。多少ネタバレあり。

この映画は「聴力障碍」があるヒロイン・西宮硝子と、西宮をいじめたことがきっかけで友人たちから阻害され、人生に絶望する主人公・石田将也の物語です。映画では、特に石田将也の視点を中心に物語が進みます。

西宮硝子が障碍を持つことでいじめられるため、どうしても「いじめ+障碍」のキーワードが全面に出てしまうけれど、物語の本質は

  • コミュニケーションの難しさ
  • 自分を肯定できない苦しさ
  • 過去の苦しみを乗り越え、前に踏み出す、自己再生

にある、と確信している。

誰しもが持っている、過去の苦い思い出。昔の未熟な自分に対する、声にならない絶望。そんな、誰もが持つ「過ちを持った過去の自分」が、西宮、そして石田という形で目の前に現れる。

映画の冒頭に描かれるいじめ、それが原因で「いじめる側」が「いじめられる側」に変わってしまう。子どもは残酷で、身勝手で、誰でも誰かを傷つけてしまうし、ふとしたきっかけで傷つけられる対象に変わってしまう。

主人公の石田将也は、誰かを傷つけることがきっかけで、自分自身が傷ついてしまった存在。西宮硝子も、傷つけられた側なのに「自分は誰かを不幸にしてしまう」という呪縛にかられている。二人はまるで写し鏡のように、よく似た存在として語られている。二人が手探りで互いの距離感を縮め、互いの至らなさ・弱さを受け入れることで、絶望の中から立ち上がり、未来を見つけていく。その過程は希望に満ち溢れている。

登場人物はすべて、誰かを傷つけ、攻めていて、救いのない状況なのだけど、皆自分のことで一生懸命で、少なくとも自分に嘘をついていない。だから、自分は誰のことも嫌いになれない。

この映画は映像描写に特徴があると感じた。石田将也が自転車を漕いで学校に行く映像は、すべて引き気味のカメラで、空や背景が鮮やかに写り込んでいる。

主人公が思い悩む場面では、曇り空や雨を降らせ、主人公の心情を映像化する手法がよく用いられるが、この映画は徹底して空は青く、景色は平和なのだ。まるで「世界はあなたが思うほど醜い世界ではない、空を見上げれば澄んだ青空が広がっている」と伝えたいかのような映像だ。つまり、この映画の世界は、主人公である石田将也に肯定的なのだ。

映画の最後に、石田将也が心を開き、目をそらさずに世界を見つめた瞬間、目に入るもの・耳に入る音はすべて、石田将也を祝福するかのように鮮やかに映る。石田将也は、最後の最後に、自分自身を肯定することができた。そして、世界が自分を否定していないことに気がついたのだ。

この映画を見終わった後、原作を大人買いして何度も読み返した。確かに映画では大事なエピソードがだいぶ端折られているため、主要人物の描写が若干浅い。一方で、最初から最後まで石田将也に焦点をあわせることで、よりピントの合った、シャープな物語の創造に成功している。

原作である漫画のタイトルの英訳は「A Silent Voice」だが、映画のタイトルの冒頭に現れる英訳は「a shape of light」であり、最後に現れる英語のタイトルは「The shape of voice」だった。この違いにも、映画版のメッセージが込められていると思う。物語の始め、石田将也は自分の人生に「光」を見いだせず、絶望していた。映画の最後、石田将也には、様々な音、「聲」が聞こえていた。このあたりの演出もにくいばかりだった。

いろいろ語りましたが、未見の方はぜひ見てほしいです。

そして、映画を見た方は、ぜひ原作、そして「ファンブック」もお読みください。