僕はよく、家族と買い物に行きます。
数週間前、いつものように、家族で買い物に出かけました。
家の近所に新しいスーパーマーケットができて、行ってみよう、ということになったのです。
お昼ごはんを食べて、少し時間が経った頃、みんなで車に乗って出発しました。
スーパーマーケットは、車で10分程度。近くも遠くもない、ちょっとだけ離れた場所にありました。
僕たちは、屋上にある駐車場に車を止めて、エスカレーターを降りてショッピングフロアに移動しました。
スーパーマーケットは、新しく出来ばかりの建物独特のにおいでした。
沢山の家族連れでにぎわっていましたが、通路が広く、ストレスを感じないつくりになっていました。
普段行かないスーパーマーケットで、家族みんな、少しうきうきしていたようでした。
いつものように奥さんは食糧を買いに行きました。
その間、僕は子供の面倒を見ていました。
買い物の合間に、いつものようにコーヒー屋さんに入りました。
すべてがいつもと同じような買い物でした。
やがて、買い物が全部終わったあと、荷物を積み込むために、屋上の駐車場に上がりました。
そのとき、僕の目に入ってきたのは、今までに見たことのないような、きれいな夕焼けでした。
正確に言えば、「今まで見たことがない」というのは誇張かもしれません。
以前にも、きれいな夕焼けは何度も見たことがあります。
例えば、ホノルルマラソンに参加したときにみた、海辺に沈む夕日は、それはそれは美しくて、波の音とあいまって筆舌に尽くしがたいものでした。
それに比べて、この日の夕焼けは、どこにでもあるスーパーマーケットの、どこにでもある屋上から見えるものでした。
ホノルルのロマンチックな夕焼けとは、シチューエーションも、周囲の風景も、比べ物になりません。
スーパーに来店した、他のお客さんにとっては、何でもない風景なのかもしれません。
だけど、この夕日を見たときに、本当に
「なんてきれいなんだろう」
と思ったのです。
僕はすぐに、その理由に気がつきました。
いつもと変わらない休日、いつもと変わらないお買い物。
いつものように、はしゃいであちこちに歩き回る子供を引き止めて、いつものように奥さんの荷物を持ってあげて。
そして、いつものように、家族全員で車に乗ろうとしたときに、全員そろって、きれいな夕焼けを見れたこと。
毎日のリズム通り過ごす生活の中では、なんとなく見過ごしがちだけれど、自分が過ごしている今の時間は、とても奇跡的で、変えがたいものだということに気がついたのです。
一人で暮らしていた頃のある時期は、手に余るような時間と自由があって、どうすごして良いか分からず、もてあましているような時間をすごしたことがありました。
なんでもできるけど、何をして良いか分からない時間。
ネット上でも、リアルな世界でも、情報量は幾何級数的に増えていて、どんどん自分の脳と身体を通り抜けていきます。
そんな毎日は、本当に秒速で過ぎていきます。誰もが知り合いで、誰もがつながっている世界。
でも、見ている景色はそれぞれ違う世界。
情報は飛び交っているけれど
「誰と一緒に今の時間をすごしているのか、時々分からなくなる」
世界。
だからこそ、リアルな世界で、一緒の場所にいて、一緒に同じ夕焼けを見てくれる人がいたことが、嬉しかったのかもしれません。
今は、家族もあり、仕事もあり、自分が使える時間はとても限られています。
時折、自由に動き回り、夜のパーティによなよな参加する人たち、ネット上でもリアルでも沢山の人々に会える時間を持つ人たちを、ちょっとうらやましく思ったりもします。
だけど、かけがえのない家族と過ごす、何気ない普通の時間。それは、とてつもなく大事で、いとおしいものなのだと、改めて感じたのです。
そして、家族以外にも、
「いつもの友だち」「いつもの仲間」とすごす時間。
「いつもの場所」「いつもの風景」で見える景色。
「いつものコーヒー」「いつもの食事」に感じる安心感。
これらは、とんでもなく奇跡的で、かけがえのないものなのじゃないか、と確信したのです。
おそらく、子供たちは、あと数年で、あっという間に成長して、親である僕たちとは話さなくなることでしょう。
今、一緒に過ごしてくれている友達は、10年経つと、疎遠になってしまうかもしれません。
きっと、10年経ったときの風景は、今とはまったく違う景色と色合いになっているのでしょう。
だからこそ、今、こうして一瞬の日常と平和を感じることができた、そのことに感謝したい。
一人でいるときには実感できなかった、「誰かとともに時間を過ごせること」に感謝したい。
そう思った、夕焼けでした。


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